title 見える見えない VISIBLE/INVISIBLE

 ● トーク Crosstalk

見える見えないクロストーク


 結果を言ってしまうと、このトークは看板に偽りありと言うか、予定と違ったものになりました。というのも、「ざっくばらんな、飛び入り大歓迎の座談会」はよしとして、「全国の先駆的な活動」を紹介することはほとんどできなかったなと反省しています。ご来場頂いた方には、内容について期待に応えられず大変申し訳ないなと思っています。チラシが刷り上がった後に、視覚障がいを持った皆さんから、プロジェクトを進めていく上でのアドバイスをいただこうと行ったヒアリングが、衝撃的と言うか、目から鱗なことばかりで、トークの参加者の方々にはまさにそのようなお互いに「見えてなかった!」体験を共有していただきたいなと思うようになりました。鑑賞のところでも触れましたが、実践ではなく情報として先進的な取り組みを紹介するというのは、背伸びし過ぎと言うか、薄っぺらいものになりはしないかと思ったのも事実です。このご時世ですから、ぽちっと検索すれば事例はいくらでも見つかるし、専門的な書籍なども出始めてはいます。であれば、様々な人が提供してくれるであろう問題提起に対して、解答めいたものを用意するのではなくて、自分たちで考え、学んでいくと言うことに重点を置き、何が飛び出すかわからない座談会に焦点を絞ろうと舵をきったわけです。



なぜ障「がい」者なのか?

 まず実際に自分が体験したことを起点にしました。それは、今私がここに「視覚障がい者」と書いているまさにそのことです。発端は、制作中のフライヤーを、ある施設の方に校正していただいた時です。すべての「視覚障害者」の「害」がひらがなの「がい」してくださいとのことでした。どういうことかと尋ねると、公的な機関は概ね表記を統一しているので、それに準じてほしいとの返答でした。
 え? それだけ? と思われるかもしれませんが、私にとってかなりの違和感だったのです。こだわるのは2つ理由があります。一つはノーマライゼーションに関わること。もうひとつは当事者性の問題です。
 まず、「害」がどこに属しているのかということ。近代社会は、産業化や合理化の流れの中で、労働する主体として人間を価値付けていく時代でした。障害は能力の欠如であるとされ、障害者とは、その「欠如=害を持つ人」ととらえられていたのです。現在、ノーマライゼーションを経て、何らかの活動をする上で障害があると感じる人、つまり、社会の側の障壁という位置づけに変わります。その障壁を解消するのがユニバーサルなわけです。そう考えると、「害」を「がい」とするのは、障害を持っている人という認識の延長線上にあり、ある種の退行と言うか、近代の亡霊みたいに感じてしまったのだと思います。



思いやりと思い込み

 二つ目のお話しをします。ヒアリングのために、企画の趣旨を説明をしようとチラシを準備したのですが、私は資料としてフライヤーを「見える」人にだけに渡しました。すると、こう言われました。「どうせ見えないんだけど、チラシはみなさんと同じようにいただけますか? 」と。私は「あっ」と思いました。ちょっとしたやりとりだったのですが、まさに目から鱗の体験でした。同時に、その思考が私の中でごく自然に行われたことに愕然としました。
 私は先読みをして、Yさんに資料を渡さないことで、気まずさを回避しようとしました。聞くこと自体、相手に失礼だとさえ思ってました。言い換えれば、どうせ見えないから必要ないと結論づけていたのです。それをそれはまさに「思いやり」が「思い込み」に変わった瞬間でした。
 トークでもYさんからこんな話がありました。子ども時代、美術館で彫刻に触れて鑑賞をする機会があり、サポートする方がぐいぐいと手を引っ張って、触らせながら「わかる? わかる?」と何度も聞いてきたと言います。この体験がトラウマで、「アートが苦手になった」と言っていました。
 これはほとんど試験です。問題が出され、より早く解答がわかることに価値が置かれているからです。できるだけ沢山の知識と情報を持ち帰ってほしいと頑張れば頑張るほど、Yさんにとってプレッシャーになっていったのでしょう。おそらく、アートを楽しんでほしい。好きになってほしいという思いでにやっている行為が裏目に出てしまったのだと思います。このようなミッション化は、双方にある程度の達成感は得られるかもしれませんが、触りながらあれやこれやと自由に考える時間が失われて、作品の本質的な魅力を見過ごしている可能性もあります。作品の意味や意図が「わかること」は、「見ること」の一部でしかなく、アートは時に世界を知るための開け放たれた窓であり、鑑賞者の意識を変化させる鏡や、触媒になり得るものなのです。目的や成果にとらわれた一方的な「思い込み」問題は、何もYさんの例に限ったことではなく、アートについての学校教育やアウトリーチプログラムに潜む罠だと思っています。



盲人の国の王は誰?

 「盲人国」と言うSF小説の話もありました。「盲人の国では、片目の男が王になる」というテーゼに対してH.G.ウェルズが創作した寓話的な作品です。ある男が盲人だけが暮らす国に迷い込みます。この国では「目で見る」行為だけでなく、「見る」という概念そのものが存在しません。視覚が必要ない社会が形作られており、「見える」ことに固執する男は狂人扱いされ、最後には目を奪われそうになります。このマイノリティとマジョリティの逆転現象は、「見える」ことが前提の、私たちの「思い込み」に気づかせてくれます。この男は、自分が優位であると言う傲慢さが不幸な結果を招いていますが、善意からくる「思い入れ」が強いほど、使命感も強くなり、そのズレが悲しい結果を招きます。
 こんな風に後になってテキストで整理はできても、なかなかその場では実践できないものです。私などは、福祉については「ど」がつくほどの素人ですが、だからといってそのことについて語ってはいけないということはないと思います。西洋的な概念であるノーマライゼーションやユニバーサルといった安易な社会システムの輸入が、他人任せの意識を生み、「触れられない」ものとして経験や現場から遠ざけていないかと思うのです。個の権利や意志を尊重するんだと頭では理解できるけれども、私たちの社会はどちらかというと気を使うというか、空気を読むと言うか、「察して触れない」文化がそれを曖昧にしてしまうのです。それはある種の「思いやり」だとも思うのですが、反面、専門家やプロフェッショナルに依存し、多数意見に流され、過熱し炎上しやすい、当事者不在の「決めつけ」になってしまう危険性も孕んでいます。「思いやり」や「思い入れ」が、「思い込み」になっていないか常に心がける必要がありそうです。

*クロストーク:チャットや言い合いの意。放送用語ではスタジオやプグラムをつないだり、混線等の意味もある。


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